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ソーダ工場の歴史

わが国のソーダ工業のはじまり

≪ソーダ灰≫
わが国でソーダなどを含めたアルカリ関係の用語が現れるのは、幕末期の翻訳書においてです。しかし、それ以前にガラスや石けんは戦国時代末期に宣教師と共に伝来し、それぞれ「ピードロ」、「シャボン」と呼ばれていました。これらは江戸時代になって細々と自製され始めましたが、大工業には発展しませんでした。

本格的なソーダ工業は、西欧から技術を導入し、明治14年(1881年)から、官営事業として大蔵省傘下の造幣寮(後の造幣局)と紙幣寮(後の印刷局)においてスタートしました。すでに西欧では旧式のルブラン法と新式のソルベー法との競争が始まっていましたが、明治政府が選択できたのはルブラン法で、いわば一世代遅れの技術によるものでした。

原料には食塩と硫酸が必要でしたが、食塩については国内塩が生産過剰で、ソーダ工業の需要を賄えるものと見込まれました。硫酸については、貨幣鋳造用として明治5年(1872年)に造幣寮で生産が開始され、これを受けてソーダ工業の移植が具体化してきました。

明治14年(1881年)、造幣寮は自家製造する硫酸の消費策として人造肥料などとともにソーダ灰の製造に着手しました。同年には紙幣寮も紙幣等の抄紙に必要なソーダ灰、さらし粉などの製造を開始しました。明治18年(1885年)には、印刷局は王子に新しい工場を建設し、ソーダ灰、硫酸、さらし粉の製造を本格的に始めましたが、造幣局の硫酸・ソーダ製造事業は民間企業に貸与され、廃止されました。

印刷局の王子の工場は明治23年(1890年)に宮内省御料局に移管され王子製造所となり、明治28年(1895年)には硫酸部門を陸軍に移し、ソーダ部門を民間企業に貸与・払下げて、事業を停止しました。それ以降、わが国のソーダ工業は民間事業として発展していくことになります。

製法に関しては、明治20年代中頃には国際的にソルベー法の優位が明らかとなり、ルブラン法が消滅していく趨勢の中で、わが国はルブラン法に依存していたために製品品質は粗悪で競争力に乏しく、改良には限界がありました。このため明治末期には企業数も2社に減少し、ソーダ灰、か性ソーダ共に国内需要の一部を充足するに過ぎませんでした。

大正時代に入ると電解ソーダ法による製造が本格的に開始され、大正5年(1916年)にはアンモニア・ソーダ法によるソーダ事業も始まりました。その後、政府による助成や技術導入によりソルベー法の確立と設備増強が行われ、昭和10年(1935年)には国内需要を充足するまでになりました。

製法転換を経て新しい時代へ

第二次世界大戦後、わが国のソーダ工業は戦災等による規模の縮小や技術の停滞により海外との技術格差が顕著となり、戦後復興はこの格差を埋めることから始まりました。

アンモニア・ソーダ法については、わが国独自の技術によりソーダ灰と塩安を併産する塩安併産法が開発され、塩安肥料として供給することで戦後の食糧増産に大きく貢献することになりました。しかしその後、複合肥料の台頭や中国での自製化により塩安の需要が減退したため、塩安併産法による製造は現在では1社だけとなっています。また、昭和13年(1938年)には11社を数えたソーダ灰生産会社は戦後4社に集約され、貿易自由化の流れの中で年々増加する輸入天然ソーダ灰との競争の結果、現在では1社のみが生産を続けています。

≪か性ソーダ≫
一方、電解ソーダ法の生産も戦後再開されて順調に拡大していましたが、昭和30年代以降の塩化ビニル樹脂の急激な伸長による旺盛な塩素需要を受け、生産能力は急激に増加していきました。昭和40年(1965年)にはついに塩素需要が、か性ソーダの需要を上回ることになりました。また、コストが安く品質の良い電解ソーダ法か性ソーダが大量に供給された結果、昭和41年(1966年)にはついに従来のアンモニア・ソーダ法か性ソーダは日本における生産を終え、か性ソーダの製造はすべて電解ソーダ法に道を譲ることになりました。

昭和24年(1949年)頃まで隔膜法と水銀法が拮抗していた電解ソーダ工業は、その後水銀法が主流となり、その技術水準は世界でもトップクラスを誇っていましたが、昭和48年(1973年)に起こった水銀問題により政府は非水銀法への転換を決定することになりました。その結果、日本のソーダ業界は昭和61年(1986年)までに隔膜法やイオン交換膜法にすべて転換されました。その過程で、隔膜法か性ソーダは品質が悪く、コストも高いという欠点があったため、当時新しい技術として注目されていたイオン交換膜法の技術開発に業界をあげて取り組むことになりました。製法転換で3,000億円を超える資金を投入したソーダ業界にとって、体力を消耗した中での新技術の開発は最も苦しい時代であったと言えます。

幸いイオン交換膜法の技術は、政府をはじめ多くの関係者の支援と努力もあり、日本を代表する技術に育ち、昭和54年(1979年)から商業生産に採用され、平成11年(1999年)には日本の製法はすべてイオン交換膜法になりました。高品質、省エネルギー性など多くの特長を誇るこの技術は、現在世界各国に技術輸出されています。 現在、日本のソーダ工業界では次世代技術として、さらに省エネルギー性に優れたガス拡散電極法の開発に鋭意取り組んでいます。新しい時代に向けた私たちの挑戦はこれからも続きます。

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